谷 竜一(詩人・演劇作家/京都府地域アートマネージャー)

舞台上に客席が並んでいる。設えとしてはすでに演劇の先人が数多試みた意匠で、今更特記するべきことでもないように思われるが、「舞台上に客席が並んでいる」と文章にしてみたときの矛盾というか一種の言葉のねじれた感覚は、この作品の『GOOD WAR』というタイトルとの類似を抱かせる。よい戦争。そんなものがあるだろうか? と観客に考えさせる時点で、この作品は一定の成果を挙げている、と、かなりポジティブに言うこともできる。

その、舞台上に並べられた客席とはなんだったか。無論それはイスの集合で、しかも新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点からか、イスごとに微妙な距離を空けて置かれている。あるいはその距離は単に、荷物置きスペースにでもしてくれ、という制作者の親切心だったかもしれない。実際のところ意図はわからない。その微妙な距離の、イスに座る。マスクをして、しかもこんなご時世なので(ご時世関係なくそうなっていたかもしれないが)それなりに演劇に造詣があるような、関係者とは言わないまでも一家言ありそう、あるいは並々ならぬ心を寄せる用事あるいはポリシーを持って観劇に臨んでいそうな、つまり結果的にやたら知人が多い来場者のなか、若干気恥ずかしい気持ちで座る。平時の観劇よりいっそう恥ずかしいような気がするのは、そのイスの微妙な距離感と、そして眼前に広がる「かつて客席だったイスたち」が異様なほどみっちりとこのホールには詰め込まれていて、かつてわたしたちはそこに仲睦まじく隣り合っていた、という事実に気づかされるせいだ。その整然とした、隙間のないようすは、わたしに軍隊を思い起こさせる。演劇を観るために、雑談のひとつも口にしない、よく訓練されたわたしたちは優秀な部隊であった。舞台に座っているからダジャレで言っているわけではない。

しかしこの作品についてこういうことを書いてしまうのは、さまざまな人物への「よい戦争」についてのインタビューの断片からなる(と思われるだけであって、これが俳優たちや河井朗による詩的な創作であったとしても、別に驚かない。それほど抽象的で、わたしの認識している現実との距離を感じる)セリフたちが、結局のところわたしに、ぼんやりとした類推を繰り返させるしかないからだ。かつて、誰かの言葉だったもの。それはある種の肉感と、奇妙な現実認識を持って「よい戦争」(らしきもの)を描写する。しかし、この「現実認識」は、あからさまに、わたしのそれとは異なっている。おそらく、この作品の作者たちもそう思っている。と、なかば確信的に書いてしまえるのは、その言葉を再生する身体が、ゆるやかながらも生き生きと躍動し、しかしまったくリアリズムに則らない、というか意味があるんだかないんだかきわめて微妙なセンで、かつ日常生活の身体よりは明らかにやや高めのテンションでキープされているからだ。ごく簡単に換言すると、出てくる人が、なんとなく、全体的におかしい。

《この現実》はどこかがおかしい。しかし、どこがおかしいのかは全くわからない。なにしろ、その「現実」の主であるインタビュイーがここにはおらず(多分。客席にはいるかもしれないが、黙っていられてはわからない)、彼/彼女の「よい戦争」(そして、前2年の創作で積み立てられた「仕事」や「死」)の認識とその再生がこれでよいのかよくないのか、もはや誰も訂正してくれない。あるいは、稽古場では訂正してくれていたかもしれない。けれど、上演の時間には、おそろしいほどに訂正の余地がない。上演の時間には、どこかがおかしい現実以外はなにも存在しない(そんなこと、河井朗は重々承知しているだろうが)。

かつて意味のあった言葉を語る俳優たちは、亡霊のようにも思われる(しかしこれも一種の類推あるいは修辞にすぎない。しかもものすごく陳腐だ)。おそらく、彼/彼女らは、この「よい戦争」のせいで、なにかが喪われてしまった。なにを喪ったのか。無理矢理にわたしに言わせるなら、現実への信頼、というかたちの音を出すだろう。

この現実の信頼できなさ。かりに今、わたしたちが「よい戦争状態」にあるならば、その現実をわたしは《よく》認識できていない。だってそんなこと、考えたこともなかった(!)。また、かりにわたしたちが「よい戦争状態」にないのならば、やはりその「よい戦争」そのものは未だ、あるいは永遠に、どこか遠い国の出来事だ。反復される想像力の問題。どちらでもわたしのなかに起きることは変わらない。ドラムを叩きつける破裂音。それが結局のところ銃声にしか聞こえない、わたしの戦争への貧しい認識が、この作品をどんどん貧しくさせる。上演の時間を経るごとにボンヤリさせ、気付かないうちに疲労を蓄積させられる。そしてその疲労についてもやがて慣れ、忘れてしまう。あ 何もおぼえてないじゃん。

上演は気がついたら終わっていた。ところで今、「新型コロナとのたたかい」のなかにわたしたちはいるらしいが、そのような修辞的表現でこの現実を語るのは、ちょっとなんだか気恥ずかしいというか、やるせないというか、「正直やってられない」という気分にならないか。しかし実際、そういう戦士としての役割を自分たちに背負わせないことには、むしろ《この現実》のほうこそ「正直やってられない」という気持ちも、痛いほどよくわかる。痛いほどよくわかるだけで、実際のわたしは痛くも痒くもない。匂いも味もある。しかし、ただただ疲弊していっている。どうでもよいが先ごろから家族が入院していて、これから野戦病院に補給物資を届けねばならない。これは上演とは関係がない。全くどうでもよくないが、きわめてどうでもよい戦争である。

 

(2021年2月6日 11時の回)