村川拓也 氏​(演出家/映像作家)

劇場に入ると舞台と客席が反転していました。通常の客席にはオブジェのようなものがたくさんあり、今回の客席は舞台上にありました。驚きました。舞台と客席が逆になっている作品はこれまでもいくつか観てきけど、やっぱりこういう設えにいつも驚いてしまいます。舞台上に作られた客席に座ってまず思うのは、その客席から見えるのは通常の客席で、そんな見慣れているはずの客席をまじまじと観ることはおもいしろいなあと思います。

加えて、劇場というのは舞台上が中心なので、いろいろな機材、例えば照明機材なんかは舞台上に向けて設置されています。だから客席からは椅子や通路だけではなく、こちらに向かって、いまにも照明をあてようとする照明機材の多さも目に入ります。照明機材というのはちょうど人間の目のようになっていて、いくつもの機械の目がこちらをにらみ続けている感じになります。その大量の照明の視線。なにも要求はしないけど、にらみつづけることを止めない完全に威圧的な照明機材の量。通常客席を俯瞰して、私はあそこにいたかもしれないだとか、不在の観客に観られているだとか、そのようなことをこの作品やこういった構造の中では、思わないといけないのかもしれませんが、そういうことはまったく気にならず、何が気になるかというと、それはその照明機材らの威圧的な視線そのものでした。じっとこちらをにらみつづける照明機材は、客席に座った観客たちを、「お前はほんまは何がしたいねん」、と問いただす『ナインソウルズ』の千原ジュニアの台詞のようでした。

劇が始まると、観客たちがさっき入ってきた劇場の扉から、俳優が登場し、あたかも、私も観客席にいるあなたたちと同じ人ですよという感じで、扉から見える外の風景の光が逆光になってシルエットになった俳優の影が言葉を発しはじめます。語られていることはあまり掴めませんでしたが、ただ、あそこはさっき自分たちが入ってきた入口の扉であり、まだ、入口から少しだけ見える外の風景が生きている。劇場の前は道路で、道路の脇に木が生えていて、天気も良く、横切っていく車と、木と、木の葉っぱと、天気の良い気持いい外の外気が感じられていて、ではこっちはというと無機質な照明機材ににらまれ、身動きもできない拘束状態なので、その平和な日常の匂いとこちらの拘束状態の間でこの演劇の最初の台詞が発せられたということになりました。

頭によぎったのは、ずっとこのままでやってほしいということでした。扉の前に立ち、外の空気と光によってシルエットになった人をしばらく観ていたかった。しかし、そんな願いは数十秒後に打ち砕かれ、入口の扉は閉められ、劇場は密閉状態となりました。

それ以降のことはあまり憶えていません。密閉状態となった劇場で客席から見えるのはやはり、じっとこちらを見続ける照明機材であり、劇場のオペレーター室と呼ばれる部屋の、カーテンが閉められた部屋の窓でした。最初に、舞台上から観る劇場というのはおもしろいと書きましたが、照明機材の他にもたくさんおもしろい物が見えます。舞台の専門的な用語を自分がほとんど知らないので、どれがおもしろかったかと言うのは難しいのですが、想像してみて下さい。あなたがいま客席ではなくて、舞台上にいて、そこから見える景色を。裏側が見えます。よく劇場のバックヤードツアーっていう催しを劇場はやりますけれど、やっぱり裏側というのは単純におもしろいものです。いろんな機材とか、幕とか、備品とか、そういったごちゃごちゃした物がよく見えます。普段は見せるべきものではない物たちが見えてしまうのです。一番おもしろかったのは、天井からだらしなくぶら下がっているガムテープかなにかのひらひらとした物体でした。おそらく長年使われている劇場だと思うので、いろんなところに経年の汚れや、破損部分があって、応急処置的に劇場スタッフが貼ったものなのでしょう。しかし、それが応急処置な為に、だんだんと粘着力が弱くなり、はがれて垂れ下がっているのでしょう。そんなものは普通は見れなくて、やっぱり舞台と客席を逆にすることによって、そういう裏側というものが見えたんだと思います。裏側というのはどんな環境でもやっぱりおもしろいものです。

自分は若い時に高齢者向けのお弁当の配達のアルバイトをやっていました。バイクで運ぶやつです。京都市内の左京区が中心の配達業務でしたが、左京区というのは結構お金持ちが多くて、ぼろぼろの家にも配達することはあるのですが、金持ちの家に配達することもよくあって、だいたい大きくて立派な金持ちの家に行くと、その家の大きさや立派さに相反して、ぼろぼろの老人がたった一人で暮らしていたりします。家のなかは、信じられないくらい散らかって、汚れていて、悪臭がすることだってよくありました。お金があって立派な大きな家を建てられるような家族はぞんぶんにこの世の幸せを謳歌しているものだと思いがちですが、じつはそうではありません。だいたいそういうもんです。どんな環境であれ、表は綺麗に見えるけど、裏側というのは汚いものです。

「お前ら全員地獄行きや」という台詞をとつぜん山下残が発しました。その台詞がすごく印象に残りました。土足で観客の心の中に入り込むような台詞だと思いました。人によっては失礼だなあと思う人もいるかもしれませんが、自分にはそれが良くて、土足で山下残は観客席に入り込んで唾を飛ばし、飛沫が観客の身体に付着したような感じがしました。そのあと、山下残は、ドラムのリズムに乗せて、現代の若者風の台詞を、グラムロック歌手のように、起立するマイクスタンドに身体をすり寄せ、上下運動させながら、歌います(実際には歌っていません。でも歌っているように見えました)。しかしそこにはデヴィッドヨハンセンのようなケバケバしくも威風堂々とした自信は感じられず、自暴自棄で無気力な申し訳なさみたいなものの匂いが漂っていました。大変おもしろくて、ダイレクトに台詞が聞こえてきました。