渡辺たくみ 氏(nidone.works)

tofubeatsが雑誌のTVBros.で連載していた「クールひょうごJAPAN」というコラムが好きだ。私は文章を読むのがとても苦手だが、あの文章の調子ならば小難しいイメージのある劇評もスラスラ読めて楽しいはず。そもそもコラムと劇評は文章の目的が違うが、劇評は読んでいる途中で、いやむずいむずいむずい!そもそも自分その上演を観てないんよ・・という気持ちになったり、書き手の表情や性格が掴みにくいため文章に愛着が湧きにくい。誰かの舞台作品を評するのでふざけた文を書くと失礼にあたる。作品を尊重しつつ読者に優しい劇評が書けるようになりたい。舞台作品を観てアンケートにガッツリ感想を書く人は少なく、ましてや劇評を書く人はもっと少ない。でも観て終わりだと勿体ない。舞台の感想や劇評が何を生み出すかは分からないが、確実に何かしらへ影響を与えるものだと思う。先日終演した、河井朗が主宰の演劇カンパニー・ルサンチカの新作公演『GOOD WAR』は劇評公募が行われていた。この劇評は元々Twitterに個人で公開した文章だが、正式にU30支援プログラムの劇評として残して頂けることになった。へたっぴだけど許してほしい。

 

 本作は、アメリカの作家スタッズ・ターケルが第二次世界大戦について様々な人へインタビューした内容を記した『よい戦争』という本が原案だ。河井朗が京都・広島・沖縄などで戦争や争いについてのインタビューを行い、そこで聞いた言葉を台詞にして作品を構成している。会場は京都府立文化芸術会館で、私たち観客は常設のステージ上に並べられたパイプ椅子に座り、観客の居ない客席がステージになっている。このような劇場の使い方をしている作品とたまに出会うが、本作はその演出が作品のテーマとうまく連携していた。作品で扱う争いというテーマには「人種を跨いだ戦争」から「現代の暮らしの近くで起きている争い」まで幅広い意味を含み、過去・現在・未来と様々な時代における争いも範疇にある。そのような意味や時間の範囲をまとめずに、演者と台詞の区切りによって様々な事象の言葉を並走させて上演していく。第二次世界大戦について話す演者は客席の最後列の後ろに立ち、現代の争いについて話す演者は客席の最前列よりも前に立っている。私たち観客から近くの場所と遠くの場所にいる演者が時代や詳細の違う争いの話を奥・手前・奥・手前と分けて話し出すことで、段々と視覚的な距離が時間の尺貫に感じられる。離れて話す演者の間を赤いシートの客席が埋め尽くされている様は、過去と現代の間で亡くなった人の血のようにも見えた。

 

 観劇をしていない人へこの作品について話すとき「時間を扱った言葉を観客自身が実際に目で見た距離で体感できる実演展示型の実感作品みたいだった」と言ったとして「え、なになになに??」と返される事になるだろう。本にも映画にも絵画にも音楽にも生み出せないものがある舞台作品だと言って片付けてしまうのは避けたい。上演中の観客の体感や気づきが作品に説得力を保たせている事、ステージ上で作品を観ていた私たちの存在も作品の一部のように感じた事は共有しておきたくなるポイントだった。

 

 上演の後半では演者が自身の死に対して、どう感じ、どう捉え、何を望むのか、という内容を話し出すシーンがある。台詞にも似た表現があったが、私たちはフィクションの中で描かれる死を客観的に受け取ることで、いつか自身にやってくる死と向き合う事を良い具合に誤魔化しているような節があり、そしてその節に気がついた時にゾッする。人生経験が自身の考え方や未来の行動に影響を与えると多くの人が考えているように、私もそう思うタイプだ。舞台作品から影響を受けた感情をなるべく大切にしたいので、普段は観劇の帰り道に音楽を聴くことを避けるが、この公演の帰り道は映画『TOO YOUNG TO DIE!』のサウンドトラックを聴いた。おそらく、観劇中に自身がいつか体験する死の存在と向き合ってしまい、その苦しさを打ち消すための音楽だったように思う。『GOOD WAR』の作中に「死んだら無」という台詞があったが、私は無意識の中で死んでも天国や地獄のような場所の存在があることを信じたかったのだと思う。すぐにフィクションの作品を欲してしまうのはあまりに単純な行動だ。この後、お腹の空いた私の足が唐揚げ食べ放題の定食屋さんへ向いたのも単純な行動である。

 

 どれだけ想像しても分からない未来のことや死んだ後の事を考えるのは怖く、日頃から常に考えて生きていたらストレスで滅入ってしまう。しかしだ。舞台芸術の起源を遡ると歴史的に祭や奉納などと関連することが多い。また、青年団の主宰である平田オリザが「演劇にはもともと老いや死をどのように受け入れていくかというシミュレーション的なところがある」と話しているWEBの記事を偶然にも見つけて、あ、やっぱりそうですか、オリザさ~ん!なんて思ってしまった。(ちなみに私はオリザさんと会って話したことはない。)そんなこんなで私は、滅入るような事とたまに向き合う時間も、自身の心の中で開催される特別なイベントでありフィスティバルという認識でも良いのではないかと感じた。

 

 舞台芸術は国や社会を変えるものか、正直それは規模感が大きすぎてピンとこない。ただ、作品を観た観客の一瞬の行動や会話の表現を変える力は舞台芸術に必ずあると思う。街角に少し風が吹くくらいの小さな規模感で生まれる「新しい考えと表現」は芸術からやってくる事も多いはずだ。感想や劇評で生じる小さなコミュニケーションが他者への理解を広げるキッカケになるのならば、劇評公募を行っている『GOOD WAR』の公演の存在自体がどこかで起きている争いを和らげる薬になるかもしれないよね、って思う。

出典:ダイヤモンド社 特別広告企画

   「多様化するエンディングのかたち 納得&安心の弔い・供養」

   https://diamond.jp/articles/-/13438