海津由布子 氏

「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこに行ったって。」

私たちはみんな、大した人間ではないのだ。くっきりはっきり、光を放てるわけじゃない。何かを変えられるわけでもない。だからせいぜい言うのだ。「他者を変えることはできない。けれども自分を変えることはできる。」聞こえのいい言葉で誤魔化しながら何か諦めながら、それでも精一杯私たちは生きている。

舞台は群馬県郊外、高速道路の中間に位置する町「朝日ヶ丘」。サービスエリア周辺の観光施設が主産業だ。その町から出て行きたい高校生、加絵と、町に戻ってきた青子。叔母と姪の関係の2人を中心に物語は回る。違和感や孤独を隠して塗り固めコーティングした彼らの生活。そうして形作られた町。その分厚い層にヒビを入れたのは、生活の根幹とも言える高速道路の陥没事故だった。

現代社会は男女も老若も関係なく、全員に社会進出と能力の発揮を求める。自分らしさや個性の確立を求める。人は個を活かすために生きるようになった。一人でなんか生きていけないのに、一人で生きているような、生きていかなければならないような気のする世の中になってしまった。矛盾を前に閉塞感が立ち込めるのは自然だろう。あちこちに答えの無い綻びが見えるのに、自分の歩く道の先は霧に包まれて見えない。どこにも行けないもどかしさと焦燥感は、入り口でも出口でもない中途のこの町と似ている。劇中ずっと中心に据えられる道路の先に、観客は自分の住む町をつなぐ。物語で語られる朝日ヶ丘は、この世界と地続きの、どこかに在る町なのだ。

部分的・一方的に切り取るから偽物や本物、嘘や本当といった概念が生まれる。終わり無く続く現実の中では、そういった概念が流動的に逆に転じることはままある。その中で垣間見える「本当」や「本物」を、拾い集めて糧として、私たちは生きていると思うのだ。詐欺に身を落とした人物が、加絵に心を開いたように。そして加絵もまた彼女を信じたように。

この戯曲には主張がない。只淡々と、京都の茹だる夏の夜のような、息苦しくまとわりつく絶望をありったけ描き出している。それは人の汚い部分であり、社会の至らない部分である。ニ千翔は彼らを救わない。距離を置き近づかない。物語に対する冷たい視線の中に、それとは反対の感情を感じた。彼は登場人物たちを、ひいてはこの世界を愛していると思った。

そうでなければ加絵は自分を騙した相手の元へは行かなかっただろう。その後、青子に対して手紙を書くことも。見つけた「本当」を信じて町を出た彼女は、まだ絶望に屈していない。同様に、道路の陥没事故後の全員の消息は語られない。起・承・転で物語は幕を閉じ、すべてを観客の想像に任せて彼らはその後を生きていく。

現代社会と地続きの世界に彼らを置き去りにすることで、ニ千翔が描いたのは希望だ。正しい意図を汲めているかはわからない。しかし劇場に響いた泣き声は絶対に嘆きの声ではなかった。

右に左に揺れ躓きながら生きている私たち。そんな不完全な存在だからこそ、儚くて美しい世界を生み出せるのかもしれない。もし全員が平等に幸せな世界が在ったとしたら、人々は歌なんか歌わないし絵も描かないし、このような戯曲も無いのだろう。ならば足りないものだらけのこんな世界も悪くない。どうしようもない世界をどうしようもなく愛おしく思いながら、家路に着いた。今日くらいは、私も私を信じてみようか。