中筋捺喜 氏(うさぎの喘ギ 俳優)

「死とバナナ―ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」―」

 

​ <死と仕事とバナナ>

上演後の意見交換会の中でも言及されていたが、英語のfruitには、果物という意味のほかに収穫、成果などの意味がある。本作は仕事に関するインタビューで構成されたテキストが、fruitであるバナナを真空パックしながら語られる。主題となる仕事と安直に結びつけるならば、fruitは仕事の成果、結果という機能を果たす。では、その仕事の成果・結果であるfruitがバナナであったことには何の意味があるのか。 上演後、観客からの質問や意見交換が行われた。観客の主眼は、舞台上に登場する唯一(と言っていいだろう)の小道具であるバナナにある。バナナがなんだったのかということで様々な意見が出ていて、その状況がとても面白かった。色んな人が色んな解釈をしていて、それがポンポンと出てくる状況、なかなか貴重なんじゃないだろうか、と思った。と、思ったので、わたしもまずはバナナについて考えてみようと思う。 わたしが観劇しながら吊り下げられていくバナナを見て思ったのは、こんな神話あったよな、ということだ。神様が天上からバナナを降ろしてくる、みたいな……。調べてみたら本当にあって安心した。「バナナ型神話」というもので、東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる神話らしい。概要を言うと、神様が石とバナナを降ろしてきて、人間は食べられるバナナを選ぶのだが、それに対して神様は「バナナを選んだからお前たち人間の命はバナナのようになるだろう。バナナは子ができると親が枯れるように、お前たちは死に、子がその跡を継ぐ。石を選んでいたらお前たちの命は石のように永遠だったのに……」みたいな感じの話だ。何とも理不尽な話である。石とバナナだったら、石を選ぶだろう。ここでは石=永遠の命、バナナ=死(短命)と対応しているのだが、バナナが死(短命)の象徴となっているのには2つ理由がある。1つは先述の通りのバナナの植物的な性質から、もう1つはバナナの実がやわらかく、もろく腐りやすいことから死が連想されるという理由である。上演中、俳優である渡辺綾子がテキストを語りながら、バナナを真空パックしていき、それをぶら下げていく。この時点で、バナナはその「もろく腐りやすい」という性質をテクノロジーによって乗り越えたといえるだろう。 ところで本作「SO LONG GOODBYE」には「死」という言葉が何度か用いられている。仕事と死との間に、いったいどのような関係があるのだろうか。このことを考えるためにはもう一つの項である生活が必要な要素となってくる。

 

<生活と真空バナナ>

ルサンチカのHP中の本作のページに、「私たちは何のために仕事(生活)をしていると言えるのだろうか。」という一文がある。仕事(生活)、このカッコ書きには何の意味があるのだろうか。作中では、生活のために仕事をしている、あるいは、仕事をすることで精神の安定を図っている、そんな人たちの言葉が語られる。前者と後者の違いは、仕事の目的だ。前者は現金を手にするため、後者はより抽象的な他人による承認や自己実現のためである。前者と後者の異なった目的で仕事をしている人たちの言葉が織物のように語られ、さらに人々が自身の生活を語る言葉と混ざり合う。生活の中に、仕事が巧みに組み込まれていく。では、死はどうだろうか。死は、生活の延長線上にあるのかもしれない。ドラマトゥルクの田中の言葉を借りるのであれば、「綿綿と生活が続いてゆくこと」(当日パンフレットより)の先には、死が待ち受けている。しかし当然ながら、死ぬために生活をしているわけではないし、死ぬために仕事をしているわけでもない。生活の延長線上に死があるだけで、それは結果であって目的ではない。 バナナ型神話で神は、石とバナナを人間に選ばせた。短絡的に、自分の生命のためのバナナを選んだ人間を戒めるように、神は人間に短い命を与えた。人間は短い命の中で子を産み、育てなければならなくなった。その結果生まれたのが、仕事(例えば農作業など)ではないかと考える。つまりバナナ型神話における死と仕事の関係は、死を回避するための仕事ではなく、死という結果を甘んじて受け、自分が死んだあとの子どものことを考えての仕事、つまり死のための仕事と言えるだろう。

しかし、本作「SO LONG GOODBYE」ではそのような仕事のありかたを否定する。上演の中で用いられるバナナは家庭用真空パック器によって真空状態になり、腐ることのないバナナであるからだ。つまりこの上演の中でバナナは神話の中にある死や短命のメタファーではなく、そのような死と仕事を接続する在り方を切断するための機能を果たしているといえる。

「私たちは何のために仕事(生活)をしていると言えるのだろうか。」という疑問に立ち返る。わたしはまだ学生で、「仕事」と言える仕事はしていないのだが、それでも「生活のためでは」と答えが導き出された。しかし実際はどうだろう。生きるための仕事で、命を落とす人もいる。上演中、死という単語が登場するたびにドキリとするのは、きっと仕事で命を落とす人がいるということを知っているからだ。そんな仕事の在り方を否定し、仕事と死を切断するための、真空パックされたバナナだったのではないだろうか。ラストシーンで、今まで渡辺が吊ってきたバナナが全て降りてくる。そこには選択の余地がなく、見渡す限り、吊られた真空バナナだ。「SO LONG GOODBYE」は、何に対しての別れであったのか。それはきっと、死ぬための仕事を生み出した神や、死と接続された仕事への別れであったのではないだろうか。どうせ、わたしたちはゆっくり死ぬ。だけど、死ぬために仕事をするわけでも、死ぬために生活をしているわけでもない。そのことを、無数の真空バナナによって観客に突き付ける、とても「明るい」作品であった。

 

引用:ルサンチカHP(https://www.ressenchka.com/) (最終閲覧日:2020年2月21日)

「死とバナナ―ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」―」

​ <死と仕事とバナナ>

上演後の意見交換会の中でも言及されていたが、英語のfruitには、果物という意味のほかに収穫、成果などの意味がある。本作は仕事に関するインタビューで構成されたテキストが、fruitであるバナナを真空パックしながら語られる。主題となる仕事と安直に結びつけるならば、fruitは仕事の成果、結果という機能を果たす。では、その仕事の成果・結果であるfruitがバナナであったことには何の意味があるのか。 上演後、観客からの質問や意見交換が行われた。観客の主眼は、舞台上に登場する唯一(と言っていいだろう)の小道具であるバナナにある。バナナがなんだったのかということで様々な意見が出ていて、その状況がとても面白かった。色んな人が色んな解釈をしていて、それがポンポンと出てくる状況、なかなか貴重なんじゃないだろうか、と思った。と、思ったので、わたしもまずはバナナについて考えてみようと思う。 わたしが観劇しながら吊り下げられていくバナナを見て思ったのは、こんな神話あったよな、ということだ。神様が天上からバナナを降ろしてくる、みたいな……。調べてみたら本当にあって安心した。「バナナ型神話」というもので、東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる神話らしい。概要を言うと、神様が石とバナナを降ろしてきて、人間は食べられるバナナを選ぶのだが、それに対して神様は「バナナを選んだからお前たち人間の命はバナナのようになるだろう。バナナは子ができると親が枯れるように、お前たちは死に、子がその跡を継ぐ。石を選んでいたらお前たちの命は石のように永遠だったのに……」みたいな感じの話だ。何とも理不尽な話である。石とバナナだったら、石を選ぶだろう。ここでは石=永遠の命、バナナ=死(短命)と対応しているのだが、バナナが死(短命)の象徴となっているのには2つ理由がある。1つは先述の通りのバナナの植物的な性質から、もう1つはバナナの実がやわらかく、もろく腐りやすいことから死が連想されるという理由である。上演中、俳優である渡辺綾子がテキストを語りながら、バナナを真空パックしていき、それをぶら下げていく。この時点で、バナナはその「もろく腐りやすい」という性質をテクノロジーによって乗り越えたといえるだろう。 ところで本作「SO LONG GOODBYE」には「死」という言葉が何度か用いられている。仕事と死との間に、いったいどのような関係があるのだろうか。このことを考えるためにはもう一つの項である生活が必要な要素となってくる。