番場寛 氏

『ひたむきな星屑』を観て(人間座スタジオにて)

劇が始まっておやっと思ったのは、登場人物が小説でいう「内的独白」を台詞として舞台上で発する瞬間である。しかもそれは一人ではなく複数の人物が、自分の心の中で思っていることだけでなく情景の描写までも自分で言葉として発するのだ。考えてみれば、自分で感じたり思ったことを同時に声に出して発することは、いかに不自然なことかは分る。文章だったら、日記やツイートに、あるいは小説のような文章として書くことはあるが、日常生活において、内的独白を声に出して発することはまずないばかりか、劇の中でもこれほど複数の人物によって発せられることはない。それはなぜか。

それは、劇では舞台上で発せられる役者の言葉を通じて、その人が演じている人物の心理や考えていることを探る瞬間に観客の緊張と好奇心が支えられており、それらを登場人物自身が言葉として発してしまったら観客は想像力を働かせる自由を奪われてしまうことになるからだ。だがこの作品の内的独白にも似たモノローグは、そうならないところに新しさがある。

多くの舞台で、二人の人物が会話を交わすのは、ある考えや思いを目の前の相手に伝え、それを受けた側がそれに対し、同調したり反発したりするためである。何か劇の中心となるような葛藤が生まれ、それがAかBかという対立を生み、弁証法的に、ダイナミックな論理の対立が劇の筋へと変化し、人物を動かすことに繋がっていく。この劇でもそうした会話の方が多くを占めている。

例えば数年ぶりに朝日ケ丘に戻ってきた青子と姪の加絵との会話は、多くの劇で使われる類の会話である。その閉塞的な街に耐えきれなくて出て行こうとする加絵の姿は数年前の青子の姿であるか、逆に青子が数年後の加絵の姿なのかもしれない。彼女らは誰の心にも普遍的に横たわっている故郷への憎しみと同時にそれと矛盾するような執着を二人の人物として体現しているのだろう。それは、現在加絵は「誰とでも寝る女」として知れ渡ってしまったが、青子もかつてそうした想いのない性行為をしたことがあったことが台詞で暗示される瞬間もあることで、オーソドックスな演劇的空間と時間を構築していた。

「ニセモノ」というキーワード

「ニセモノ」という言葉は随所で繰り返されこの劇を動かす。サービスエリアで出される実際はその土地とは縁もゆかりもない「湘南カレー」はホタテが入っているからと言い、言葉の雰囲気だけで命名されたのだし、化石博物館に展示されている恐竜の化石を初めとする多くの化石はよその土地から購入し取り寄せたものだとされる。私的な調査だと言っては店に侵入し、「ニセモノ」を告発する春子の発言はそうした「ニセモノ性」とでも呼べるものこそが、むしろこの街全体の本質を表していることを気づかせる。

だが「ニセモノ」とは何だろう。それはそれではない他のもの、ここではないどこかに「本物」がある筈だという確信に支えられている「幻想」かもしれない。「櫻井翔」という人物を名のる人からの迷惑メールも実在のタレントではないという点ではニセモノだろうが、発せられた言葉としては普通のツイートと等価であり誰かの本物の言葉なのだ。

吊り下げられた道路の一部とそこに空いた穴という舞台装置

今回の舞台で印象的かつ効果的だと思われたのは舞台中央に紐で吊り下げられた物体である。明るくなるとそれはアスファルト道路の一部がはぎ取られたものであり、その真下には、それが取られた穴が空いており、登場人物はその穴から化石やら他のオブジェを出してはその面に並べていく。それだけではなく観客からは見えないが、その穴の底には水があるらしくそこでオブジェや手を洗う仕草が何度か反復される。水で手を洗うのは『マクベス』を初め演劇史のなかですでに何らかの意味を帯びた行為として定着しているのだろうか。加絵は靴を脱ぎ、その穴で足を洗うところで劇は終わっているが少し説明的過ぎる行為かもしれない。

その道路に空いた穴はこの劇の中で唯一起こる高速道路での陥没事故を連想させるが、その事故で起きた客同士のカタストロフを収集させようと駆けつけた大沼の台詞が明確である。混乱した客同士がもみ合ううちに、逃げる方と追う方が混ざり合い分らなくなると彼は言い、この街には出口しかないのだというようなことを言う(記憶が不確かだが)。ここにおいてもニセモノと本物、入り口と出口(戻ってきた者と出て行く者)という見せかけの二項対立を無化する視点が示されている。

新たなモノローグの可能性へ

どこかに本物がある筈だという希望を捨てきれないまま、ニセモノとしての生活を送るしかないと自覚して生きている人々の心理をこの劇は分りやすく表現している。だが私が今も考え続けているのは、複数の人物が他人を前にしているのに語る長い内的独白のようなモノローグについてである。

私は常に、演劇の中でも特に小劇場で演じられる劇には、前衛的なものを観たいという願望が強い。それで、そういう類の作品を求めて東京や横浜や静岡に行くこともあるが、昨年から今年にかけてそうした作品を集めたと思われる催しにシアターコモンズと、こまばアゴラ劇場で演じられた「これは演劇ではない」シリーズがある。参加グループでは重ならないのにある共通点が目立った。それはモノローグ作品が多いという点である。例えば村社祐太朗の「新聞家」では俳優が殆ど体を動かすことなく、朗読のように台詞を語る。脚本を目の前で朗読している俳優から脚本を取り上げたのと原理的には同じ筈なのに、観客に要求される集中力は朗読を聞いている時の比ではないのは、目の前の俳優が語る話を聞きながら観客は、自分の中でその語られる内容を場面として想像力で構築しなければならないからだ。

今回の『ひたむきな星屑』はどちらかというとオーソドックスな対話に支えられている部分が多いが、そこに挟み込まれる他人に向かって発せられるモノローグは、観客の想像力の自由を奪うどころか逆に極度にその集中を要求するような、そうした現代の新たな演劇の流れの一端を表していると言えるのではないだろうか。

追記

これは今回の作品の本質と関わりのないようなことだが、観客にとって重大なことと思われるので書いておきたい。これが一人でも多くの演劇人の目に触れることを願っている。

それは舞台上で俳優が実際に煙草を吸う場面についてである。今回の上演にあたっては煙が苦痛の人のためにマスクが配られるほど配慮されておりそれには不満がないし、青子が喫煙するのは談話するのに自然な休憩時間であることを示すためであり、それだけ意識された必要な演出だったのだろう。ところで、静岡のSPACを初めとして特に外国から招いた劇団の俳優に舞台上で喫煙するシーンが目立つように思われる。問題は、後で振り返ってもそれらの演出のメリットが分らないという点だ。確かに煙が上ることで空間が重層化されるし、視覚、聴覚以外に観客の嗅覚を刺激するという効果はあるが、それが演劇的リアリティにどの程度貢献しているかは疑わしい。それらの舞台では、ひょっとして単に俳優が喫煙中毒だからではないかと思わせる程、演出の効果は出ていなかった。

その演出の狙いが、観客に明確に伝わる場合以外は喫煙シーンは入れて欲しくないと思う。