市川奈々 氏

まずは、このような劇評を募集する企画を立ち上げ、わたしのような劇評家ではないただの若者に機会を与えてくれた人間座に敬意を表したい。ひたすら率直に、1人の客として思ったことを書こうと思う。観劇中、大学在学中に数々見た学生演劇を思い出していた。学生演劇のような作品だと思った。学生=クオリティーが低いという意味ではない。作家・演出家に迷いが見えたように感じた瞬間がいくつかあったからだと思う。オリジナリティーを確立するための試行錯誤中のもどかしさが常に拝見できたような気がする。役者は地に足がついている印象を受けた分、戯曲と演出のかすかなずれや揺れが気になった。(もしかしたらそれが作品の狙いだったのかもしれないが)言葉を変えるとワークインプログレスのような作品だった。全体を通して思ったことは、戯曲があまり親切ではない、という事だった。親切な戯曲が秀れた戯曲ではないという事は承知の上だ。この戯曲の不親切さは、作者が意図した不親切さなのか・それとも不器用さゆえなのか分からない曖昧なレベルで迷っているように感じ、自分の中でストン、と何かに落とし込むことが出来なかった。また、演出家がテキストを深く理解しているシーン・観客の私たちと同じくらい恐らく理解しきれていないのであろうシーンの質に差を感じた。そういう解釈の仕方があるのか、と演出によって驚かされた部分もあれば(セックス描写と映画館のシーンはテキストと演出が噛み合いどきっとさせられた)、観客席に直接迷いが届いた瞬間もあった。だが、演出家の迷いや疑問を感じたことに対しては少しも悪い印象は抱かなかった。引っかかったのはあくまでも各シーンの質に差が生じていることだ。テキストの言葉が難解だった。深いのか浅いのか分からなかった。きっと深いのだろう、と信じて見ていたものの、描かれる人間が浅いように感じて、やっぱり全体的に浅いのか? と混乱した。土地の雰囲気作り・世界観が戯曲・演出共によかった。田舎の閉塞感・謎の息苦しさが常にスペースを充満しており、不思議な哀愁・切なさが鑑賞中、心の中に漂っていた。ただ、キャラクター造形や会話の端々がリアルに感じられず、もどかしかった。例えば、セックス依存症を手の平を返したように克服してしまうヒロイン。(戯曲を読む限りでは本当に克服したかは分からないが、上演を見る限りでは克服したような印象を受けた)終盤で駆け足に心の変化を見せ街を去る展開に彼女の人間味を感じなかった。突然、作者の都合でラスト動いてしまったように見えたのが残念だった。誰とでも寝てしまうこと・セックス、という事が記号的に使われていたような気がしたことも引っかかった理由の一つかもしれない。このテーマを使うのなら、もっと深くまで掘らないと客は納得しないのではないか、と感じた。とは言え、ワンダーウーマンの妙なリアルさには驚いた。彼女のどこにでもいる迷惑なおばさんという存在が、一気にこの作品を私の中で身近なものにした。リアルとアンリアルの差がもう少し縮まればいいと思ったが、非常に主観的な意見なので無視してもらって構わない。

舞台美術が初めて光に照らされたとき、心を掴まれた。暗闇の中では何か分からなかったものがようやく分かる高揚感が印象深かった。ただ、あの美術だと揺らすか、下がるか、上がるかの三種類しかないだろう、と予想ができてしまい、実際それを超える何かがなかった事が物足りなかった。やはり観客としては自分が想像できる範囲の一つ上を期待してしまう。糸を引く液体が遺跡・ラーメン・精液など様々なものに見えたのが面白かった。しかし、それらが作品の本質と繋がる適切な演出だったか、と聞かれると自信はない。あの演出と戯曲が上手く噛み合っていたとは何故だが思えなかった。細かい部分になるがワンダーウーマンが自撮り棒で撮影し、映像がカーテンに映し出されるとき、映像と動作がずれていて気になった。細部まで、何かが行き届いていないように感じた。私は演出をする人間ではないから分からないが、河井氏が本当にこの種の戯曲の演出に適していたのか、懐疑的になった。とことん抽象・もしくは具象の戯曲の演出を見てみたいと思った。