中谷利明 氏

(記録家/重度訪問介護ヘルパー)

 私は重度訪問介護という、独居生活を送る重度身体障がい者の方の生活支援をおこなう職に従事している。単身生活を送る利用者さん(身体障がい当事者の方)の生活を支援するというのが業務の内容だ。食事、排泄、外出、体位交換(床ずれを防ぐために体の向きを変える)など衣食住全般のお手伝いをするのだが、利用者さんと長時間おなじ空間にいるため、自然と些細な身の上話や趣味についてのおしゃべり、笑い話をしたりなど、それなりに関係性が形作られていく。
 京都府立文化芸術会館の客席につき、開演してしばらくの後、私はこの重度訪問介護の仕事での出来事を思い出していた。観劇の話題に戻るまえに、しばし訪問介護の話をつづけたいと思う。

 介護の現場には四肢の自由だけでなく、気管切開手術によって発語が困難になってしまった方も多くおられ、私が介助に入っている利用者さんのなかにも、気管切開に加えて脳性まひであるためにベッドで寝たきりの日々を過ごす方がおられる。脳性まひによるものなのか、ただ受け手である私の未熟さのためなのか判然としないのだが、その方の介助をしていると、時折、顔の表情の変化からその時々の気分や感情をうまく読み取れないことがある。笑っていると思ったら怒っていたり、怒っているのかと思ったら爆笑していたり…。もちろん気管切開をしているため、発語による伺い立てもかなわない。そうした場合、利用者さんとの言語を介したコミュニケーションにはふたつの手段がある。ひとつはコンピュータの音声入力システムによる文字入力。利用者さんが舌を打ち鳴らすことで、マイクを通じて画面上のキーボードを操作し、ヘルパーに伝えたい内容を文字で打ち込むという方法。もうひとつが透明文字盤による会話。ひらがな五十音や0~9までの自然数が記載された透明のアクリル板を利用者さんの顔の前にかざし、目線の先の文字を追って指差しで一音ずつ言葉を拾っていくという方法だ。これがとても根気の必要な作業で、ただのワンセンテンスを聴きとるのに一時間以上を要することさえある。そして、このワンセンテンスを聴きとるのに要する時間の中で、ヘルパーと利用者さんのあいだでさまざまな非言語的コミュニケーションが交わされる。一文字目から類推した言葉を投げかけてみたり、なにかを取ってほしそうだったら目線を追ってそこにある物を目の前に差し出してみたり…。そうした四苦八苦を経ても聴きとりを完遂できないことも多くある。というか、聴きとれたと思っていたが、後になって確認してみたところ、ぜんぜん違ったということさえある。しかし、なんだかんだ介護の時間は過ぎていくし、そうしたなかでなぜか彼の人柄がつかめてきて、不思議と、利用者さんもなんとなく私の扱いをわかってきているように思えてくる。これら経験を通して、語り手が伝えようとしていることが受け手にズレなく伝わるということのほうがコミュニケーションにおいてむしろ副次的なものなのではないかと、私には思えてきた。聴きとりや語りかけの失敗がすなわち、コミュニケーションの失敗ではないのだと思う。

 ルサンチカ『GOOD WAR』では、複数人を対象にして実施されたインタビューの語りを戯曲として編み上げ、その内容を舞台上(客席も含むホール全体が舞台になっている)に立つ四人の役者が口々に語っていく。インタビューの対象者はバラバラの出自を持った人々で、同じインタビューに対する語りの内容はそれぞれに異なっている。特殊清掃と思われる仕事現場での出来事が語られたかと思えば、第二次大戦の沖縄上陸戦についての語りがつづけて語られるのだが、個々の語りは任意の箇所で切り取られ、繋げられることで、語りのパスゲームか連想ゲームかのように編集されている(音楽的なテンポのよさが重視されているため「編曲」とも言えそうだ)。それは、思い出話をしているときに、不意に、脈絡なくある思い出が芋づる式に想起されていくときの、不思議なあの感覚が言葉の連なりによって再現されているようだった。

 私は過去2作品(『PIPE DREAM』『SO LONG GOOD BYE』)の鑑賞にあたって感じていた「自分の知らない記憶を見せられてる感じ」の原因はここにあるのではないかと感じた。それは、インタビューという試み自体が対象の記憶を掘り起こしていくものであることに起因しているだけでなく、一本の戯曲としてまとめられた語りの集積の朗誦が、最低限の舞台美術のみで構成され、客席と舞台の境界線も曖昧な薄暗い空間でおこなわれることによって惹き起こされた一種の陶酔状態なのかもしれない。

 記憶を視覚的に表現するとなると、それは大体において就寝時に見る夢のような形をとるように思われる。夢の内容は夢占いや精神分析などにおいて、「象徴」として、解釈されるものとして扱われる。専門的な知見に頼らずとも、誰しも一度は印象的な夢を見たあとにネットの夢占いのページで、自分の見た夢がなにを象徴しているのかを検索したことがあるのではないだろうか。

 『PIPE DREAM』に始まるルサンチカの三部作には、そうした、観賞者の解釈を誘うような演出が多く用いられている。『PIPE DREAM』における、役者が宙づりにされた状態で語りをおこなう表現などは「宙づりにされた状態での語り=たゆたう記憶の不確かさ/生と死の狭間」、『SO LONG GOOD BYE』では「真空パックされた大量のバナナ=規格化され消費される労働」というように、私は反射的に解釈してしまった。そして今作、『GOOD WAR』においては役者の動作と語りのミスマッチ、それぞれ別の動作と語りをしている役者が、ある瞬間にコミュニケーションが通じているように見えてしまうという演出が取り入れられていた。たとえばこういった場面があった。 ―たまたま寝転がっている役者(諸江)の上に、たまたまもうひとりの役者(渡辺)が登り、諸江の顔をギリギリ踏まないように渡辺が諸江の顔の横に飛び降りる。渡辺は「ごめん」というが、それはインタビューの語りの言葉であって、諸江に対する言葉ではない。―

 ひとりの人間の行為と言葉のズレや、相対するふたりの人間の行為と言葉のズレは「隠された本当の意味を探したい」という観賞者の欲求を駆り立てる。

 ここで最初に話した介護の話に戻る。脳性まひや発語の困難を抱えた人々と会話を交わす際、文字盤での言葉の拾い上げが困難になってくると、ついつい表情から相手の感情を読み取ろうというコミュニケーションの作法を適用したくなってしまう。というか実際にやってしまう。私のような表情筋の制御が比較的自由におこなえる人間でも、自分では思ってもいないような表情をしてしまっているもので、不機嫌でもなんでもないのに「今日、不機嫌なの?」と言われることはある。しかし、そこで私は即座に「いいえ。ちょっと目が疲れてるだけ」とか、「つい癖で…」といった言語による意思の伝達と修正が可能なのだ。発語や表情筋をうまく扱えない人々にはそのリアクションを即座に打ち出すことが難しい。早とちりな解釈や、伝えたいことを先回りして理解しようとする行為は暴力的なものになりかねない。そこでは解釈を中断すること、目の前の語りを忠実に受け止めるように努めることが必要になってくるように思う。『GOOD WAR』における避けられない争いとは、相対するものや問いを、自らが持つ理解の限界のうちに押し込め、矮小化しようとする解釈の暴力に対する争いであり、語られる言葉の示す裸の現実をなんとかして受けとめようと耳を傾ける、気の遠くなるような試みのことではないかと私には感じられた。しかし、なにか自分の理解を超えたものを解釈を排してあるがままに受けとめようとすることは実際には不可能であり、無理に実行しようとすればその行いはそれこそ暴力的で虚無的なものとなってしまうのではないだろうか。そうは言っても私たちには語り合うことが必要だと思われる。これは舞台芸術に限られたことではないだろうが、少なくとも演劇という営みは、そうした途方に暮れるような、矛盾にまみれた問いに対する応答を再演しつづける、ひとつの戦場であるかのようだ。行き詰まりのなか、まったく活路が見えない状況であっても根源的なところで発せられる応答が「GOOD WAR」なのだ。開演直後、私たち観賞者に背を向け、高らかにこぶしを打ち上げて叫ばれた伊奈の「うぉーーーーーーー!!!」の一声が、この作品のすべてを語っている。

 私は解釈の中断に耐えきれず解釈する。答えこそは語られないまま、解釈はまず私にとっての救いとなる。そして、あなたにとっての暴力とならないことを願う。