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命のサイズ、死のサイズ

ドラマトゥルク・田中愛美の「屠殺・解体のエッセイ」

初めて鶏を殺したのは5月25日。

首を切って解体をする。

鶏の屠殺・解体体験のため、朝から京都府は美山へ向かう。乗り合わせの車の中、綾子さんは緊張しているようだった。わたしはどうだろう。

緊張していないわけではない、でも思っていたほどの動揺もない。

田歌舎に着くと、犬の遠吠えで迎えられた。獣のにおいがする。電波はときどき一本立つくらいで、水道は来ていない。そばに川がある。

鶏が籠の隙間からヒョコと顔を出している。これから殺す鶏をかわいいと思ってしまった。鶏は、籠の中で卵を2つ産んでいた。

籠の中逃げ惑う鶏の脚を掴んで二羽合わせて脚を紐で縛る。このとき胸を合わせるとふしぎと大人しくなるのだった。心臓の音で安心するのだろうか。

綾子さんは脚を繋がれて地面に転がされた鶏の腹に手の甲で触れていた。

鶏は繋がれたまま、大きな荷物、まるでごみ袋でもぶら下げるようにして持ち運ぶ。山の中、木と木の間に物干し竿のようなものが渡されておりそこに鶏を引っ掛けた。

足元の草が刈られていてすこし開かれたそこを処刑場みたいだと思った。

よく研がれた小さいナイフを手渡される。誰からともなく口数が減る。

担当のお兄さんが飄々と手本を見せてくれる。鶏のとさかを握り首元にナイフを当て、頸動脈を静かに切る。

しばらくは、鶏はそれと気づかずぽかんとしている。血がタタタタと地面に落ちる音が聞こえる。

20秒ほどすると、声をあげ突然バタバタと暴れだした。死の直前に湧き出る強烈な生のエネルギー。レインコートに血飛沫が飛ぶ。

そこから1分ほどで鶏は事切れる。その1分間、悲痛(に聞こえてしまう)な鳴き声を聞きながら、滴る血をじっと見ていた。

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死ぬその瞬間、鶏は力が抜けたように羽をフワッと広げる。

一言で言ってしまえば筋肉の弛緩なのだろうが、その光景がふしぎと神秘的に映る。

天に昇るとか、魂というものを信じてしまう気持ちがわかる。

その動きに一種の美しさをすら感じた。天使を連想する。

でもそれこそが人間の、私の傲慢な願いに似た何かなのかもしれないとも思う。

この頸動脈を切る作業、力の掛け方がいがいと難しく、慣れないうちは何度も何度もナイフを引くことになる。

暴れ出す鶏の頭を押さえつけ、既に肉が見え血が滴る首元を何度も何度も切りつける。

それが、いかにも「鶏を苦しめている」感が強く、なかなか心に来るのだった。

鶏がまだ絶命する前から蝿はどんどん集まってきて、あたりをぶんぶん飛び回る。

ナイフを引く綾子さんの顔が強張る。ごめんなさいという心の声が聞こえてくるようだった。

首を切られ血を滴らせ死んでゆく鶏に、胸を合わせて繋がれているもう1匹は鳴き声ひとつあげず、見向きもしない。ただ諦めたように静かにしている。

羽ばたきに引っ張られ、ぶらんぶらんと揺れる。何か思うところはあるのだろうか。鶏の心を考えるがわからない。

鶏の真下には血が溜まっている。緑の葉っぱに赤い血がまあるく乗っかっている。

「っぽすぎる」と思った。

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一人ずつ順番に、一羽ずつ首を切ってゆく。

一発で楽になってほしい。「冷静に、きちんと」と考える。ボタボタと地面に血が落ちる。お兄さんの「いい感じです」の言葉にほっとした。

鶏に余計な負担をかけずにほっとしたのと同時に、自分のテクニックというか、「求められていることをきちんとその通りに遂行できる」ということに満足感を覚えた。

死んだ鶏の血で濡れた羽や羽毛を見ると、流れている血を見るよりずっと不潔に感じる。

一方、完全に乾いてしまうとモチーフやイメージに思えて、むしろ美しく感じてしまった。

自分の脳の狡さ、都合の良さを思ったが、これが本能として感じる衛生観念かもしれないとも思う。

なぜだろうか、命を奪う瞬間、頸動脈を切る行為より、動いている鶏のとさかを掴んで都合のいい角度まで首をひねる、この行為を一番「野蛮」だと感じた。

篭の中逃げる鶏を追いかけ捕まえて脚を縛る動作もそうだったのだが、動きを無理矢理封じたり、逆らうものを押さえつける動き。

鶏冠とあたまを掴んだときの、鶏の温度とじゃりっとした肌触り。引き攣ったまぶたと薄い皮膚越しの頭蓋骨の硬さ。足元には血だまり。

何を考えているのか分からないオレンジ色のまあるい目が、ふしぎなものを見るようにして鶏を覗き込んだマヲさんのガラス玉のような瞳と重なる。

血抜きが完了したら、70度の湯につけて羽や毛を抜いてゆく。ここからはスピード勝負だ。

もう鶏肉の匂いがしている。そうかそうだよな、軽く茹でているのと同じなんだよな。

そう、早くしないと鶏が茹ってしまう。時間が経つと羽は抜けにくくなる。急げ急げ。

「イヤさ」で言うと、なんならここが一番嫌だった。とにかく湯が熱すぎる。でも急がなければならない。

湯が熱いこと、熱いのに触らないといけないことに対して怒りが湧いてくる。ヤケクソで羽を毟り、ヤケクソで毛を抜く。ヤケクソのままでかい出刃包丁で脚先を落とす。

脚を切断され全身の毛をむしられた鶏は「チキン」の形をしていた。

羽を毟られて丸裸になった鶏は、すっかりきれいに見えて、もう触れることにはなんの躊躇もない。

首元の傷口がぱっくりと大きく開き、ゼリー状に固まった血の付いた毛の残る頭部だけが妙に生々しい。

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ここで昼食を挟む。

ウッとなるほど濃い、野生みのある肉の味。これが本来の肉の味なのか。おいしいがたくさんはいらないなと思う。

それに、なんだか妙に量が多い。でも残さず食べなければという気がする。「なぜならこの肉はさっき私たちがしたようにして殺された肉なのだから」。それはわかっているのだが、それ以上に、この肉を残すことで何かが損なわれるような気がする。対獣ではない、対人への配慮。

なんとか食べきったはずだが、お腹がいっぱいでもう何もしたくない。

お腹がいっぱいという感覚はなぜかグロテスクな印象を覚える。シンプルな体調不良と共に、自分の欲望みたいなものに対する罪悪感を感じてしまうのかもしれないとも思う。

昼食後、腹ごなしに川のそばを歩いていたとき、綾子さんが小脇に育っていた野苺のような、小さな黄色い実を見つけた。綾子さんはその実を知っているようで、躊躇なくそれを食べる。

この土地に生えている食べられるものだとしたら、誰かが管理しているものなんじゃ……そう思ったが、興味の方が優った。

どんな味でどんな食感なんだろう。それを知りたくてつまんでしまう。プチプチと甘酸っぱく弾けておいしい。

食べているときに感じたのは、まさしく「奪っている」感覚だった。蛮行。強盗。賊。そういう言葉。

昼食後、解体小屋に移動し作業に入る。

ここから先は、手順を追うことで必死だった。置いていかれないように、引けを取らないように。情感の伴う体験というよりは、もはや作業だった。

皮一枚を剥がされると、また生々しさが蘇ってくる。

毛と内臓には生々しさを感じるのに、皮膚というのはなんでこう、「紙」みたいな、「ビニール袋」みたいな、これで遮られているから大丈夫! という感覚があるんだろう。この感覚、私はずっと水分量というか濡れ感と関わりがある気がしているのだが、そもそもこの毛なり内臓なりに感じる「生々しさ」の感覚ってなんなのだろうか。合ってるのか?

小さな心臓。内臓はぷくぷくぷりぷりとしていて触ると気持ちいい。脂でギトギトの手は内臓の一種のように見える。

乾いた手を濡らすのは抵抗があるが、一度濡れてしまうともうどれだけ濡れても大丈夫。

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それぞれの役割を持ってみっちりと詰まっているたくさんの内臓の、なんと複雑でなんとよくできたものか。

こんなものが自然に、勝手にできるのか。にわかに信じがたい。

これをみると、神の存在を信じてしまう気持ちもわかる。わたしたちの中もそうなっているんだな。信じられない。

鶏の腹の中には金柑というこれから卵になるものと、まだ殻のない柔らかい卵、あとはもう生まれるだけの完全体の卵、その全てがあった。心臓より大きい卵を持って生きていたんだな。

どこまで「ニワトリ」で、どこから「お肉」に見えてくるかは人それぞれとお兄さんが言っていた。

毛をむしられて丸裸になっても、内臓が丸見えになっても、頭のついているそれは依然として肉には見えてこない。相変わらず鶏だと思った。毛のむしられた鶏、内臓剥き出しの鶏。

最後に首を落としたとき、ようやく肉塊として見えてきた気がした。切られた首はおもちゃのフィギュアのように見えた。

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小学校で買っていたウサギが野良犬にやられて首だけの状態でごろんと転がっていたことを思い出した。

道路の真ん中で車に轢かれて頭が割れていた小動物を思い出した。

祖母の死顔を思い出した。

自分が鶏を殺すことより、手についた血より、内臓が剥き出しの鶏より、自分には訳の分からない状況で既に死んでいるものを見たときのほうがグロテスクだと感じる。

たとえば「いただきます」の話。命をいただくとか、自分が知らないだけで誰かが代わりに殺してくれているとか、そういう話。

鶏の命を奪うということ、その肉を食べるということ、それによってどういう気分になるんだろうかと考えていた。

偽善者ぶるのは違うし、かといって偽悪的なのは最悪。

こうなんじゃないか、こうかもしれない。そういう予測や予想が先に立ってほんとうのところが見えなくなったり、誰かの言葉を借りて無意識にそこに当てはめてしまったり、知っているフィルター越しに見るのは避けたい。

できるだけすなおに、フラットな感情でいたいと思っていた。

その上で、正直なところ、ぜんぜん平気だった。「平気」というのはもちろん「大好き!」という意味でもないのだが。

戸惑いや感じることはもちろんなくはなかったが、命を奪うことに対する抵抗感とか、グロテスクさへの拒絶感は驚くほどにない。

それ以上に、いざその場に立ってみると、とにかく「必死」の一言。気分がどうとか価値がどうとか考えている余裕はほとんどなく、目の前の作業をぬかりなくこなしてゆくことで手一杯。

でもこれでいいような気がした。

最後、犬とじゃれあう綾子さんが妙に犬に好かれていたのは、手から鶏の匂いがしたからかもしれない。

みずから解体した鶏をバッグに詰め込んでアイジーに帰る。

なんだかいろいろな、いろいろな部分。もう名前は覚えていない。一絡げに真空パックされて、ほとんど区別もつかない。ただお兄さんの言っていた「食べられる」という言葉だけが頼りだ。

帰ってようやく気づく。私、興奮してる。

この日は知り合いの誕生日で、今日自分の手で屠殺し解体してきた鶏の肉を焼いてもらいながら、たいへんに酒を飲みたいへんに酔っ払った。

ちょっと暴力的になっている自分に気づく。わたしは酔うと好戦的になるらしい。これも興奮の作用。

この夜は何度も鶏の話をした。みんな興味深々に聞いてくれた。

いったん日常に戻ってしまえば、冷蔵庫に血のついた鶏の頭が入っている状況はなんともグロテスクで、早くこれをどうにかしたいという気持ちが募る。これいつまで冷蔵庫でいいの? という不安も募る。

翌々日、ようやく時間を作りキッチンに立った。

内臓は煮込みにする。ガラはスープにするため出汁をとる。

ところが、砂糖と塩を間違ってしまってしょっぱくてどうしようもない煮物になってしまったのだった。鶏ガラスープは寝落ちした結果4時間ほど煮込んでみたが、どうにも味が薄い気がした。

このとき初めて自分のことをひどいと思った。

捨てるわけにもいかず、豆腐を食べてごまかしながら完食した。その晩は喉が渇いて何度も目が覚めた。

ていねいにていねいに屠殺解体した鶏、ていねいにていねいに食べたいと思っていたのにこんなふうになってしまうのが自分らしくてげんなりした。

肉を食べることがこんなに大変なのなら、肉ってほんとうにたまにでいいなとぐうたらな私は思ってしまう。

育てたり解体したりの手間を考えると割りに合わないような……と考えるも、そうなると野菜や穀物なんかも当然そうで、食べることってとても割に合わない、でも食べないと生きてはゆけないジレンマ。

生きるために食べ、生きることを目的として暮らしているんなら、割に合わなかろうがなんだろうが、そうして生きていくしかないんだな。

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二度目に鶏を殺したのは7月6日。

先日の屠殺・解体体験の話を聞いた数人が興味を持ったようで、次の日には早速体験と宿泊の予約を入れていた。

二ヶ月ぶりの美山にはものすごく蛙がいた。一歩歩けば二匹跳ねる。小さくてまだいいが、こんなに大量の蛙を見たことがない。初めこそぎょっとしたが、次第に慣れてきて蛙を追いかけ回すのが楽しくなった。

籠の中、雨で濡れて、見窄らしい鶏。

「いじめられて突っつかれて禿げちゃう鶏もいるんです」と、前回と違う担当のお姉さん。

前回私はカメラを持ちながらの参加だったので、今回はできるだけカメラに構わずに体験に集中しようと試みる。

前回と同じ手順で鶏を束ねる。

すこし温度を感じる脚。狭い篭の中ではあるが、逃げる鶏を追いかけ捕まえる残酷さ。 

心なしか前回より緑の茂っている首切り場の中央、ちょうど鶏の血が滴るところに白いきのこが生えていた。できすぎている。まるで演出されたフィクションのよう。現実っておかしい。

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鶏を追いかけ捕まえることも、鶏同士の胸を合わせると大人しくなることも、頸動脈を切ることも、しばらくはそれに気づかないことも、鶏の悲痛に聞こえる鳴き声も、死ぬときに羽を広げることも、このあと熱い湯に浸け羽を毟ったり、肉や内臓を一つ一つ切り分けたりすることも知っている。

初めて鶏の首を切る二人を見て、なんだか先輩のような気分になってしまった。恥ずかしい。「知っているつもり」ほど恥ずかしいことはない。

首を切る抵抗感は前回より少ない。前回よりも「うまく」やってやろうという欲が出る。あからさまに慣れが出ている。向上心も湧いている。

二羽目でこんなでは、毎日やっていたらそりゃ慣れるのだろう。慣れることがいいのか悪いのかわからない。わからない、とわざわざ言うのは、あからさまに命のやりとりだからだろうと思う。命のやりとりだけを特別視しているようで気持ち悪くもある。

もはや鶏をやることよりも、蛙を踏むことの方が抵抗がある。グニュとしている感覚を想像してしまう。まだ踏んだことがないからだろうか、想像しているときが一番怖いのかもしれない。実態を知れば、そうかこういうものか、と分かる。屠殺もゆうれいも社会も同じなのかもしれない。

解像度を上げていって、「わかる」(気がする)ことが増えていくと、怖いことは減ってゆく。でも今度は慣れがやってくる。一度めに感じた興奮ももはやなかった。

罪悪感とか、残酷さとか、申し訳なさ、ありがたみ、そういう全ての感情、刺激には確実に慣れがある。慣れがあるから、ナメてしまわないように、わざわざ言葉にしたり、思い返したりするのだろう。

ムッティーさんは、先ほど自分で首を切った鶏の腹に触れて「まだ温かい」と言った。

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今回は開始時間が遅かったため解体体験はできず、担当の方が解体している様子を見学させてもらうことになった。

鶏の体に手際よくナイフを入れてゆき、ぜんぜん関係のない話をしながら、あっという間に解体し終えてしまう。それはまさしく作業。

解体作業は必要な情報や人脈を選択してゆく作業に似ていると思った。切らないように、生かすように。

隣ではタイミングよく鹿の解体もやっていたので、そちらも同時に見学させてもらった。

皮一枚でこんなにイメージが変わるなんてふしぎだ。少なくとも今の自分には、皮一枚剥げばどんな動物も似たものに見える。

内臓を取り出された鹿の骨は、内側から覗くとまるで美術館の天井みたいだ。ちがうか、そういう建物が動物の骨格に似せて作られているのか。美しい。

命を奪った結果のことを美しいと感じることはよくないことだろうか。

屠殺・解体という一連の体験に関して言うと、私は非常に興味深く、おもしろいと感じた。

それは鶏の首を引き裂き命を奪ったり羽をむしり肉を解体することがおもしろいのではなく、その洗練された手順を学び身につけようとするおもしろさや技術を向上させるおもしろさ、興味や知識欲、知らないものを知るおもしろさ。自分の世界が広がる、世界に対する解像度が上がるおもしろさのようなもの。

私はもっと知りたいのだと思う。

この傲慢さがある限り、命に対して謙虚になることはできないのではないか。

この態度が一つの謙虚さである気もするし、そう言ってしまうことが既に傲慢だし、ただただそんなわたしは、命を奪うことについて語る言葉を持ち合わせていないような気がする。

殺すことを個人的体験に矮小化してはいないかという気もするが、しかし全ての行為は個人的体験でしかないような気もする。

その後川に入って遊び、夕飯は外で風を浴びながら、自分たちで殺した鶏やこの施設で解体されたジビエ、栽培されている野菜の料理をいただいた。

コテージに帰りベッドを整え、すこしだけ酒を飲みながら話して、シャワーを浴びたら早々に床に着いた。

せっかくなので二段ベッドの上で眠る。天井が近い。梯子は怖い。自分の体が自分が思っているより鈍い。小5くらいからこの感覚がある。動物にはこの感覚、ないんだろうか。

翌朝、ざざ降りの雨の音で目が覚める。蛙たち、溺れていないといいのだが。

自分が川に蛙をぶん投げておいて、溺れませんように! 泳いで帰って! と思った昨日のことを思い出す。

前も見えないような大雨の中、1匹の犬が小屋から出て遠吠えを続けている。なぜなんだ。

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しばらく鶏肉はいいかな。

そう思ったはずなのに、翌日コンビニでからあげクンを見たら急に食べたくなってきてうっかり購入してしまった。

からあげクンはやわらかく、適度に生温く、正体不明で、とてもおいしかった。

おわり

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