椋平淳 氏(Kyoto演劇フェスティバル実行委員 委員長)

ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』講評

バトンに吊られた透明真空パック入りの無数のバナナ ― それが観客をどのように触発するのかが、この作品のすべてである。
インタビューで「働くこととは? 仕事とは?」と問いかけ、その回答を織り重ねてセリフを構成した脚本。舞台はいわゆる「なにもない空間」。モノクロ衣装の女優が一人。語り始めは自身と仕事とのかかわりだが、やがて殺人現場で死体の扱いに苦悩する刑事の心痛にすり替わる。ここで舞台上に降下してくるバナナは、透明パックに入れられたそのヴィジュアルから、まるで殺人現場の遺留品か、殺されて焼かれたガイシャの骨の一部か、あるいは多数あるのは各地で連日多発する事件の象徴か、といった意味合いをかすかに、けれど複合的に帯びる。そう、極限まで切り詰められた時空間では、役者の発話や所作だけでなく、あらゆる要素が何らかの意味合いを予想外に増幅させる。たとえば、静寂の中で降下するバトンの音。通常の芝居であれば上演中に昇降してもほとんど聞こえないモーター音が、低い波長で“ウィーン”とうめく。無論、観客の意識のほとんどは吊り下がるバナナに向けられるのだが、一方でそのほのかな機械音から工業機械の“作業現場感”が漂う。(同時にこのモーター音は、舞台スタッフが彼らの“仕事”を奥で的確にこなしていることの、楽屋落ち的証しでもある。)バナナは確かに、世界経済の一部をなすプランテーション農業の主要な産物の一つ。熱帯での生産から流通、各地での販売までの間に、どれほどの機械音がバナナに吸収されていったのか…。続いて、バトンにさらに吊るされるべく、女優が追加のバナナを真空パック機で密閉するバキューム音。バナナが密閉されるこの息苦しさは、日々の仕事の、そしてその仕事を繰り返しても大きな開放的変化が得られない現代的日常の閉塞感を、あたかも奏でているようだ。(いわんや、プランテーションは“奴隷”と結びつく農業でもある。)セックス産業に従事する女性の“営み”は、バナナという性的ツールで増幅されつつも、単なる一時的な快楽提供ではなく、“性から生へ”のベクトルを生み出す。その場面がアスファルト技術者による道路補修工事に引き継がれることで、社会インフラに再び“命”を吹き込むという巨大な“再生”に向けた物語へと発展していく。ただし、誰でも常に並みの仕事に従事できるわけではない。バトンに吊られようとした瞬
間に、上昇するバトンに嫌われる一本のバナナのように…。ただしこの“格差”を突き付けられたバナナは、いつまでも“ワーカホリック”な現代社会を斜に構えて見透かすことができる、案外幸せな傍観者になりえるかもしれない。
もうやめよう。So long, goodbye. 労働は人類の基本的権利の一つである。この作品は、バナナというシンボルを核にして、仕事に対する個々の所感がらせん状にからまる人類規模の「意識の流れ」である。そんな壮大な意識の流れにキリはない。その作品としての成否は、観客自身の仕事に対する心の奥底の実感を呼び起こす仕掛けになりえたかどうか、である。終演後の観客からは、「なぜバナナなのか? バナナの意味は?」を問う質問が多数寄せられた。もしかすると観客は、“解釈”という作業に追い込まれたのかもしれない。言い換えれば上演側が、作品を作品として鑑賞する特権的立場から観客を引きずり下ろしきれなかった、ということかもしれない。あわよくば、観客を触発し、彼ら自身が舞台上
の意識の流れに没入し、「自分の労働体験」を口々に朗々と語る瞬間を生み出したかった、と思う。