田辺剛 氏(劇作家・演出家/下鴨車窓)

 さまざまことばが集められるというときにそれが書籍になっていればどうだろう。展覧会の絵を見るようにたどっていく、ページをめくり、ふと遡ったり、時に一つのことばの前で長い時間とどまることもあるだろう。かつて発せられたことばに想像力を膨らませ解釈する。そのように一つ一つのことばと向き合う時間が受け取る側にかかっているからこそ向き合える、書籍はことばと出会う有効なカタチの一つだ。

 一方で、さまざまなことばを誰かが代弁するのを聞くというときには、一つ一つのことばに向き合う時間は代弁する側にかかっている。受け取る側はことばと出会う一瞬に緊張しつつそれを待つほかない。書籍とはまったく違うことばとの出会い方だ。聞き逃してももう一度聞くことはできない。なんとも不便なように思える。しかし一瞬の出会いにことばが凝縮されるのを感じられるとき、わたしたちは一回きりだが替えがたい体験をすることになる。ことばが生きているということを改めて知ることになる。問題はその替えがたい体験がどのように実現されるかだ。

 上演のなかでドラムが叩かれリズムを刻みそこにことばが呼応するように発せられる時間が魅力的だった。そのドラムの震動は聞き手の身体の芯に響いてわたし自身の鼓動とも共振する。ドラムの震動とリズムはわたしたちの生そのものである。そこにことばが重ねられるときにことばは思考の産物、なにかを考えたり感じた結果ではなく、わたしたちがなにかを発しようとする衝動そのものだと知る。ことばの意味内容も大切ではある、けれどもそこで体験するのはことばの原始に触れることだった。ドラムが叩かれることによって、ことばが現れる時間を代弁する側が一方的に操作するのではなく、受け取り側と共有することができた。ことばが途切れてドラムのリズムが続くときに、わたしがことばを聞き逃しているのではないかと勘違いするほどだった。

 いっそのこと全編がそのようにドラムが刻むリズムで貫かれていればいいのにと思ったのは、それ以外のところでは代弁する側の時間の操作があからさまに感じられたからだった。タイムラインそのものはしっかりと構成されていたように思われるが、それを共有するための装置がドラムの時間以外にはなく、結果としてほとんどが饒舌な時間に観客は立ち会うことになる。そこではTwitterのタイムラインに流れる膨大なことばを目の当たりにしてソッと画面を閉じるように、耳を閉ざさざるをえない者もいるのではないか。現代のことばの危機は、その饒舌さが沈黙を覆ってしまい強者弱者の関係になっていることだ。そうした視点があれば、例えばそれは物言わぬオブジェだけではなく終始沈黙しつづける人物がいればどうだろう、劇場でなければ実現できないことばとの出会いの機会はもっと増えたと思う。