川﨑 真 氏(幼児教育研究家・講師)

ーーー生死観の礎を探る。ーーー

まず、昨年のルサンチカの「SO LONG GOODBYE」に引き続き、今回の「GOOD WAR」の劇評も書かせていただく名誉に預からせていただいたことに感謝申し上げたい。くしくも京都府は緊急事態宣言下におけるコロナウイルスとの戦いの真っただ中。当初、こういった社会背景の中なので、あえてこの挑戦的とも言えるタイトルを付けられたのかと思ってしまったが観劇後私の思いはどのように変化したのであろうか。

昨年の「SO LONG GOODBYE」を観るにあたっては、事前にルサンチカのホームページなどに書かれている情報をかなりの部分まで深く読み込んでいくことにしたが、今回は全く事前に情報を得ずに観ることにした。ある種の戦いである。まずタイトル上の三角形が目に付 いたがこれが何を指すのか分からない。少なくとも観劇するまでは。話は前後するが、全 体を通してこれ程難解な演劇を観たことがない。しかし、逆を言えば演劇とは観る側の感 性や思いによって如何様にも解釈する事ができることがその醍醐味の一つであるはずである。又、私の劇評を一度でも読んでいただいた人には分かると思うが、一般的な解説や感想にならないように心掛けている。これも広い意味での演劇の醍醐味と言えるかも知れな い。

話を元に戻そう。私はこの三角形を「この世、あの世、中間の世」と解釈する事とした。「中間の世」とは、死んだ人達があの世に行く前に立ち止まり今までの人生を振り返り、 他の人と議論しながら自分の人生を総括する場所と理解してもらえば良い。次にその舞台構成であるが、私は京都府立文化芸術会館には何度も足を運んでいてその規模や音響などに関して熟知しているつもりである。しかし今回の舞台構成は変わっていた。緊急事態宣 言下での観客の人数制限を逆手に取った物で有るのか他の特別な理由があるのかは分からないが、舞台と観客席が逆の構成になっている。観客は観客席から観るのではなく舞台上に作られた席から演劇を観るのである。演者は観客席で演技をするといった舞台構成であ る。前記した「中間の世」がこの観客席を利用した舞台で展開される。音響などが上手く行くのか心配になる側面もあったが、いずれにせよこの緊急事態宣言下で相当な苦しみや 試行錯誤があったに違いない。関係者各位には頭が下がる思いである。

舞台が始まると前記の私の心配事は払拭されることになる。音響の脆弱さはあるのだが、 観客席を上手く利用し最後尾の扉を開けて演者が登場する場面などは逆光をうまく利用して演者の姿をはっきり見せない様にしたり、ドラムをはじめ様々なアイテムを無造作に配 置するなど通常の舞台構成ではできない要素が散りばめられていた。このことから音響の脆弱さを差し引いても私の心配は払拭されたのである。

舞台の内容に話を移そう。今回の舞台も前作、前々作に引き続き、演出家の河井朗氏がさまざまな人にインタビューすることから始められたそうである。私は今まで多くの舞台 を見て来たが、これ程「死ぬ」という台詞が繰り返されるものを見たことがない。「GOOD WAR」 というセンセーショナルなタイトルであるが、この意味を探る事から始めたい。これは、「戦争=死ぬ」や「良い戦争悪い戦争もある」「日々の生活も戦争だ」などといった単純なものではないと思われる。もちろん人それぞれ感じ方があるので、私の考えを押し付けるつもりは毛頭ないが、私はこのタイトルを観劇途中から「生死観」と解釈することにした。 生死観とは自分や他者がいかに生きいかに死ぬか、残された者はその死をどの様に受け入 れるかなどの考え方を意味する。

劇中にテロという台詞が出てくる。テロとは自らは普段と同じ生活を行いながらも自分の意に反して突然訪れるもので死に至る場合もある。自らの意に反して突如訪れる死に、交通事故や東北、阪神淡路に代表される大規模な震災もある。重要な点は自分の意に反して という点である。これとは逆に自ら死を望む人もいる。現実社会の中で何か苦しい戦いをしている中でそれを望む人もいれば、何となくそれを望む人もいる。医療従事者の方が他者の死に数多く接する場合もあり、病気や介護などで近親者の死を間近に迎えようとしている人もいる。このように自分や他者の死ぬまでの時間的距離がその生死観を作る礎になるのではないか。今回の舞台ではこういった生死観が製作者の伝えたかったことではないか。と思うようになった。

ある映画監督が「死ぬことは全ての人に与えられた保険である。死ぬことによって闘病や借金などのあらゆる困難から解放される。」と言われたことがある。もちろん死を賛美しているものではないが、今回の舞台を観て、人間が生きるという行為が「GOOD WAR」ではないか。と強く思うようになったが皆さんはどのように感じられたであろうか。