永田悠 氏

舞台中央に浮かぶ抉られた道路の一部は、隔絶された世界を暗示している。入口も出口もない高速道路のパーキングエリア、街から離れられない閉塞感を男と寝ることで紛らわせる青山加絵、街の価値観を無意識の諦めとともに受け入れて生活するパーキングエリアの一画にある飲食店のチーフの大沼、従業員の水間。隔絶された世界から離れたはずなのに戻って来た加絵の叔母、青子。化石博物館は更新されない価値観を展示している。道路があった部分に開いた穴に溜まる粘性の透明な液体。大沼と水間は、青子と照合するように液体の中から記憶を取り出してミニチュアの舞台に並べていく。記憶にまとわりつく液体を拭う動作は生々しさを感じるが、何かを思い出して言語化することを可視化するとこうなるのかもしれない。粘性な液体は、作中で様々な象徴になる。透明は何に照らされるかで色が変わる。浮かぶ道路からは終始液体が垂れていて、「木々の深い緑で塗りつぶされた」と青子が呼び、「ぬめる緑」と加絵が呼んだような地方の連帯的空気感を示している。他の色を許さない雰囲気はどこにでもあるが、そこから離れてみなければ分からない。緑を誤魔化すために出てくる色は白。白に照らされた粘性の液体は精液だ。集団での関係と対比された個人同士の触れ合いとしての白。これが成功しないことは青子も加絵も分かっている。白であろうと色付きの関係でしかない。しかし、最後に出てくる雪は意味合いが変わる。人によって付けられた赤や緑などたやすく覆ってしまう圧倒的な白。赤は停滞と破壊と循環。渋滞した高速道路に並ぶテールランプの赤はガラス窓越しに見れば滲んでいるだろう。終盤の暴動のシーンで誘導灯に照らされた液体は、殴られた大沼が流した血にリアリティを付加する。ところで、登場人物の中で赤澤だけが街の外からやってきた人物である。赤の人。赤澤は偽物が気に入らず、街の博物館や舞台である飲食店のメニューを糾弾する人物として登場する。正義漢になりきれないのは、単なる不快を偽物と等価にして語るからである。SNSで拡散している描写もあるが、視聴者を含む赤澤の目線が外からの一般論にはならない。人は見たいものしか見えないからだ。特に自分と無関係の物事に対する場合には。こういった外からの視点が登場した後、物語は終盤を迎える。血は流れ続けるものであり、循環が生まれる。赤澤の名前が春子というのもこういった意味が含まれているのかもしれない。滞ったものは残れない。名前の意味。加絵はキャンバスで、どんな色にも染まり得る。大沼の「沼」は水が滞っているイメージから過去に捉われていること、水間は水の間で流されるという他律的な価値観が見える。青子の青も水のイメージだが、作中の人物像からは、流れるという自律的なイメージが強い。斎藤には色のイメージはないが、あり触れた苗字から、匿名的大多数を示している。登場シーンも、冒頭と、最後のわんわんという泣き方でこの人かなと想起させるくらいである。匿名的で色が付いていない登場人物として重要なのは、迷惑メールの差出人だろう。櫻井翔となっているが、有名人であれば交換可能な記号である。加絵はキャンバスであることで櫻井翔と無色の交流ができた。星の砂という証拠により世界はここだけではないと認識し、従来の世界は崩壊していく。ここには冒頭に出てきた誘導灯、流されていれば成り立つ自己はない。街から離れた加絵は、最終的に粘性の液体と戯れている。育ってきた世界を自分の一部として肯定しているように。ここではない何処かに行けたからこそ、ここを認めることが可能になった。自由は選択肢が複数なければ成り立たない。加絵の物語として見ると閉塞された世界からの解放となるが、青子の物語として見るとどうなるか。観劇し終わって感じたのが、青子は何故戻って来たのだろうだった。筆者が地方の閉塞感から離れてきた経験があり、青子に移入してしまったからだ。「あっという間だよ。全部、なかったことになる。」「でも逃げてきて良かった、って思う。」「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこへ行ったって。」という台詞や、吸っているタバコの煙のたゆたうイメージからすると、他の世界からまた逃避してきただけで、場所がたまたまこの街だったというだけ、という風にも見える。しかし、逃避ではないとしたら。あえて自分が逃げてきた過去と対峙するために選ぶ場所としては、選択肢はこの街しかありえないだろう。わざわざ煩わしいと思ってきたものを逃避先として選択する意味がないからだ。加絵と対比すると、内側に向き合うことを決めたことで青子は自由になりえた、ということになる。このように、加絵と青子を中心に、配色と世界の内側と外側の物語として観たが、視点をさらに拡げると、色も内側も外側もない世界で生活するしかない第三者の視座もある。赤澤がSNSで提供している動画を眺めている人々や、暴動をしたPAにごった返す大衆。数で言えば圧倒的多数者であるのに、名前はない。しかし、その人たちも当たり前に生きている。「色々、ねえ、遠くへ行けない人間は(ここで)騙し騙し踏ん張んないと、ねえ、いけないんで。」「・・・もう、勘弁してくださいよ。」という水間の台詞は、まさに第三者の視点を代表しているように聞こえる。どんな人であれ過去があり生活している空間がある。飼い慣らすための方法論は人の数だけあるだろう。外に出てみることで俯瞰したり、自分の外の世界を下げることであったり、常に変化を求めたり。「ひたむきな星屑」が見せてくれるのは、人々がひたむきに生活する姿である。作中に出てくる「星の砂」は自分が生きている世界の外にもそういった生活が存在することの証拠である。そして、この物語の底に流れているものは、誰もが持っている「ここではない何処か」への憧憬ではないだろうか。